人気ブログランキング | 話題のタグを見る
ブログトップ

きょうはきのうのあした

yuntata.exblog.jp

トウキョウソナタ

観た映画の話を友人とするのはとても久しぶりだった。

もともと映画や書物の感想を話したり書いたりするのは苦手なほうだ。
そもそも見て感じたことを的確に言い表す自信がないし
もっと深い感想を持つ映画好きの人から見たら
私のつたない感想なんて稚拙に見えるかもしれないし、
軽い見方、底の浅い感想しかないのだと思われたりもしたくない。
さらに言えばそんな風に考えているのを見抜かれたくない。

いつもぐるぐる勝手に一人で考え過ぎていた私には
「誰かと映画を見てお茶を飲んで感想を楽しく語り合う」
という一見簡単そうに見える、
実際当時の一般的な若い男女ならだれでもやっていたであろう行為は
とてもハードルの高いことだった。

だから「映画は一人で見るものだ」
と思っていたしそう口にしていたし、実際一人で見に行っていたので
私と映画を一緒に見たことがある人はとても少ないと思う。

家から自転車で10分ほどの距離にシネコンがあって
見ようと思えばいつでも気楽に映画が見られるけれど
なかなか行かない。
二本立て三本立てを探して行っていた学生時代が嘘みたいだ。
レンタルを借りることも稀になってしまった。

映画は好きだけれどゆっくり見る時間がとれない、というのを言い訳に
そのへんの映画好きでもなんでもない学生さんよりも見ていない。
私にとって映画は年に数回、ほんとうにぽっかりと空いた時間にだけ
見るものになってしまった。

トウキョウソナタはそんな数少ない機会に恵まれて見た作品だ。
たまたま家族が誰もいない夜にレンタルしてきて自宅で見た。

一人の夜を有意義に過ごした証拠みたいなものがほしくて
選んだDVDだった。
選択に特に深い意味はなかった。
字幕を読むのが面倒だったので邦画を選んだ。
笑いたい気持ちでもアクションに心躍りたい気持ちでもなかったので
なるべく淡々としてそうなものを選んだだけだった。

小泉今日子がなかなかいいよ、とどこかで読んだ気もした。
年齢が近いこともあってかキョンキョンは自分の中で特別な存在だ。
一定の年齢を過ぎても古びず
いつもかっこよさを更新し続けているアーティストの一人である彼女が
すんなりとしなやかに年を重ねている間は
自分もなんだか大丈夫だ、というきもちに勝手になっている。

彼女がかければ老眼鏡も年を重ねる中で手に入れた
お楽しみアイテムのひとつ、みたいに見える。
それは彼女が年をとることを楽しんでいるからだろう、きっと。

そんな彼女がこの物語の中では
私とさほど変わらない二人の子どもを持つ普通のお母さんとして登場していた。

少しずつすれ違っていく日常。
なにかを期待したり諦めたり傷ついたりしながらも
表面上はなにごとも変わらず朝ごはんを作り昼ごはんを作り夕飯を作る。

「引っ張って」と言っても夫に気が付いてもらえない小泉今日子。
彼女のなんでもない小さな落胆と諦めと
でもあたりまえに続いていく日常が私にはよく理解できた。

身につまされる、と言うほどのことは自分に起こっていない。
同じ境遇というわけでもない。
子どもたちはもっとおおらかで素直に笑顔を見せているし
夫は権威主義でもなんでもない。
でも夫婦の中の家族の中のなんとなく、な間合いのようなものは
どの家にも存在している。もちろんあの家にもあったし、うちにもある。
それの積み重ねが家族になる行程なんだろう。
一方で家の中というのはどこにも行き場がない澱のようなものがたまっていく場所でもある。

友人はリストラのリアリティに怯え、二度と観たくないと言っていたけれど
同様に小泉今日子のあのシーンのこともよく覚えていた。
二度と見なくてもかまわないほどに心の中に強く
あちこちのシーンが楔のように残ったのだと思う。

子どもがピアノをやっている、ということから
トウキョウソナタみたいだという話になった。

そんなに才能はないよ、あんなに焦がれるような想いでやってもいないし。

あの映画はこのシーンが心に残っている。

自分はむしろこのシーンに戦慄を覚えた。


小さな会話だった。
ものすごく弾んだわけでもない。
ただ同じ映画を見たことがある同士だからできる会話だった。
それぞれに思うところがあってそれぞれの感想は違うけれど
結局それは印象に残った順番が違うだけ。
立場と経験が違うから見ている側面が違うだけ。

お互いに見てから時間が経っているので
自分の中に咀嚼した印象だけが残っている。
それを踏まえて会話したあとには
同じものを見てたんだな、という静かな気持ちだけが残った。
by lottanico | 2011-10-24 16:30 | 日々
<< 後悔はないか 見上げる >>